後藤達哉の働き方、生き方、その思考。ぜんぶ。

仕事を楽しみ、輝いて生きる。

自由の本質

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テレビの未来について書こうと思ったけど、そのまえに転職活動を経て思うことシリーズ。我思う故に我あり。

 

 

すごく自由な日々を過ごしている。

 

束の間だが、何にも属さず、何度目かの余暇。

 

“何者でもない自分”

 

若かりし時分にずいぶんと憧れた響き。

 

自由は責任を伴うなんてよく言うけれど、会社の看板、役職を背負ってるほうがよっぽど責任を伴うよなぁ、なんて思ったりする。

 

働かないと、生きてけないよ、生活できないよ、なんていう意味合いの責任だとしたら、誰に対する責任なんでしょうね。
それって自分に対してだから、責任て言葉はおかしいんじゃあないでしょうか。
ただ、自分であることに何の責任があるのだ。とか屁理屈並べてみる。

 


今、すごい気楽です。そう、自由というより、ただ気楽です。


だけど、孤独というか、焦燥感というかね。すごく感じてしまいます。
もちろん、一生このままでは食っていけないとか、そんなこともあるんでしょうが、どちらかというと帰属欲求的な話だと思っていて。

10数年サラリーマンをやってしまうと沁みついてしまうんでしょうかね。

 

こうやって何もなく(もちろん子どももいるんで、本当に何もないわけではないですが)、文章書いて、お茶して物思いに耽り、海辺散歩して、ジムで汗を流して。


まさに若いときから夢に描いた生活ですよこれ。作家だけで食っていけたらずっとこんな生活でしょうけど、読んで字のごとくそれは夢のまた夢です。

 

ただ、ずっとこんな生活を求める自分がいるわけじゃなくて。孤独とか、焦燥感とかどこかで感じている。


というより、社会からつまはじきにされてる(勝手になってるんだけれど笑)感覚。なんとも切ない。
ただ自分を生きる、という修行もまだまだですな。

 

そう、これって前述の帰属欲求ってやつなのではないか、と。

 

 

フリーランスの人でさえ良く見渡してみると、なにかしらのコミュニティに属していたりします。

なんちゃら会議所とか、なんちゃら理事会とか、それこそ、オンラインサロンのコミュニティとか。

 

以前、印象的だったのが、某会社さんの地域(に拡げる)戦略で、その地域のひと(フリーランス)に名刺を持たせて、広めさせてるんですよ。しかも無報酬で。
フリーの人にとって何がメリットがいまいちピンとこなかったので聞いてみたら、名刺を持てること(オフィシャルに言えること)、らしいんです。

 

もちろんアンオフィシャルに勝手に語らせない、抑止力的な側面もあるんでしょうけど、僕はそれ聞いて、どちらかと言うと帰属欲求を満たしてあげてる(くすぐっている)んではないかと。

 

まさにコミュニティづくりにおいて、重要なポイントなのかもしれません。
僕はその道のプロではないので、深くは語りませんが。

 


僕は23歳のとき、とにかく「自由」が欲しかったんですね。

 

新卒で入った会社がよっぽどイヤだったので(あくまで自分の問題なのですが)、大組織を飛び出してフリーターにでもなんでもいいからなって、ゼロになって、4畳半で山下清みたいなタンクトップきて、大の字に寝っ転がって、「自由だー!」って叫びたかったんですね。レールぶっ壊したいぜロックンロール的な。

 

かなりやばい妄想してました。(あ、いまタンクトップきちゃってますね。夢叶ってます。)

 

結局、ちゃんと間あけずに転職したんですけどね。しかもオフィスは六本木ヒルズ。結局人生は流れ流されていくものですね。綱渡りながらも。

 

 

その4畳半で自由叫ぶってのもなかなかロマンがあって甘美というかね、なにか不意に憧れてしまいがちですけど、それって本当の自由ではないし、幸せではないってことにはさすがに気づいてます。


これは拙著『続けない働き方。』の最後の最後に紹介した言葉でもありますけど、
映画『イントゥ・ザ・ワイルド』に出てくるこの言葉が好きです。

 

幸福が現実となるのは、それを誰かと分かちあったときだ。

Happiness only real when shared.


要するに一人ではなにもシェアできないわけです。孤独なのです。しかも少しネタバレですが、孤独や自由を求めた先に、見つけた言葉ってのがまたいいんですよこれが。


僕も孤独と自由を求めて生きてきて、ちょっとずついろんなことがわかってきたのかもしれないなと。


じゃあ、自由ってのは組織に属さないってことではないってことがわかりました。

それは若いときに勘違いしていたことです。大組織にいるから俺は純粋な俺じゃない、●●の後藤達哉であって、純粋な後藤達哉ではない。だから、自由じゃないって。

 

これって、俺は俺じゃないって思ってしまったこと、のほうが重要で。

 

自由とは、ただ、自分であるということなんですね。

 

自由という字をみても自分に由る(よる=もとづく)って書いてます。答えめっちゃ近くにあったやん。

 


会社員だって自由になれるってことです。
むしろ会社員だからこそ、自由になれる。

 

自己実現、て言葉があります。自己を実現する。自由ですね。
これもマズローの欲求の段階にあります。しかも最上位です。

 

帰属欲求を満たして、その先に自己実現ができる、会社って最高のフィールドじゃん!て今では思います(ちょっとリ●ルートっぽい)。

 

自己を実現するっていうのは、自分の「想い」を持ってその仕事に携わるってことだと自分なりに解釈してます。

「思い」ではありません。「思い」はアタマで考えたこと、つまり染み着いた世間の価値観や他人軸です。「想い」は自分の心で感じたこと、湧き上がってくるもの、思い出すものです。

 

自己実現というのは自己表現とも言い換えられます。仕事を通じて自分を表現するってことですね。「想い」を形にする。そうなれば、大組織にいても、俺は俺、に還れるわけです。むしろその組織を活用して、より大きなことを、より早く、表現できます。

 

組織を脇役として、自分が主役で生きればいいのです。

そうすることがむしろ、会社の価値やレピュテーションを上げることに繋がるのです。


そう考えると、起業家とは、自らそのフィールドをつくってあげるわけだから、すごい人だよね。

僕にはできっこないな、やっぱり。

 

だけど今では、僕は僕なりにこうして僕を生きることで自由を体現している(ちょっと中二病っぽいw)。

 


そうやって、会社員兼作家として生きられる限り生きていく所存です。

 

働いて、稼いで、書いて。


そうやって、生きていけたら幸せだなぁ。


たつを

 

(困ったときのたつをオチw)