人を救いたいという気持ちを持って、人を救うことはできないと理解する。
自分が人を助けるとか救うとかって言うのは、とてもオコガマシイことだと最近よく考える。
(あ、災害支援とかの話とはまた別の話です。募金等で支援します)
心理カウンセリングを勉強してみたり、プライベートで人の転職相談や人生相談に乗っていると本当に痛感する。
僕がアドバイスできるのは自分の経験から感じたことであって、それはあくまで僕のフィルターを通してのアドバイスになってしまう。
アドバイスという言葉すらおこがましい。
その人のバックグラウンドやその他諸々よりも、今の悩みを聞いて、僕というフィルターを通して感じたことを伝えているにすぎないのだ。
ある種、己の考えを押し付けることにもなりかねない。
だから僕はあるときから、ひとと向き合うのをやめた。(どうしても相談を受ける時は、主に質問したり、見守ったり、尊重したりしている)
その代わり文章を書き始めた。発信し始めた。
僕というフィルターを通してよい場所で、僕というフィルターを通し、あくまで僕の体験や、経験を語ることに専念した。
直感的に僕がひとと向き合うのが、相手にとって正ではないと思ったのを、最近、言語化できた。
それが、人を救うなんておこがましい、だ。
やる気スイッチのCMで僕が好きなところは、スイッチを「押してあげる」ではなく、「見つけてあげる」ことだ。
そう、やる気スイッチは押してあげることができない。
スイッチを押すのはその本人にしかできない。
それをここ何年か「人を救いたい」という想いを持って、試行錯誤してやってきて、本当に痛感している。
人を救いたいという気持ちを持って、人を救うことはできないと理解する。
これが本当のスタートなのではないか?
繰り返しになるが、だから僕は文章を書いている。発信している。
僕というフィルターを通した体験や、経験を伝えることで、誰かの気持ちがふわっと軽くなったり、明るくなったりすればいいなという想い。
そうして、自分の人生を考える「きっかけ」に、たまたまなったなら、もっといい。
一歩目を踏み出すきっかけに。
俺も、私も、やってみよう。そんなスイッチを押すきっかけに。
そう、君だけのやる気スイッチを。