後藤達哉の働き方、生き方、その思考。ぜんぶ。

仕事を楽しみ、輝いて生きる。

依存と自律について考察 -個人とコンテンツと企業とプラットフォームの観点から-

依存する側と依存される側の関係について。
依存される側も依存されることに依存している。
つまり相互依存。
依存されることで、他者からつまり頼られることで、自分の存在意義を認めている。条件付承認とも言える。

そこを脱却して、無条件で自己承認できるかが人間個々人の永遠のテーマかと思う。

自律。独立自尊。個人が独立して(会社に属していても自律して)、その集合体が大きなうねりとなり、世の中を変えて行く。

いかに依存関係を作らずに、いかに多くの人にポジティブな影響を与えるか。つまり、個人の独立自尊を促すことができるのか。

一つはプラットフォーム。なるべく色のない。コンセプトや方向性を伝えられる「場」。オンライン上でもいいし、フィジカルでもいい。必要以上に寄り添わない「場」としての場を作ること。

すなわち「仕組み化」する場合は、プラットフォームである必要がある。

「場」が「居場所」になってしまう、とまた依存を生みやすい。
帰属意識を刺激し、流動性がなく、排他的になりがちだ。
仕組み化、プラットフォームは、出来るだけオープンである必要がある。

また、一個人の考えを、仕組み化する場合は、個人の考え方と同じ人を生み出し、宗教になりやすい。その人が絶対になり。その考えがルールとなり、その他大勢の思考停止を生み、依存を生む。「自律」と「思考停止」という対立した概念。

では、タレントやスポーツ選手はそれとどう違うのか?

●●ロスみたいな言葉が流行っているが、依存とは違うのか?

それは、出会えないことにあると思う。

寄り添わないし、向き合わない。だから依存の関係になりにくく、どちらかというと憧れの対象になる。
自分の人生とは切り離された状態で、距離感を持った状態での、コミュニケーションとなる。

その人がいないとダメ(という人もいると思うが)、ただ人生とは切り離されている。
羽生くんが好きだからといって、本気で夫と離婚して求愛する人はいないだろう。
そこはファンの領域を超えない(当たり前だが)。

タレントやスポーツ選手は、勇気を与え、きっかけを与える。
自分も頑張ろうという気にさせる。それが自律につながる。
そういった存在が、本物である。

なので、個人としては仕組み化はしてはならず、コンテンツ化、タレント(あるいはキャラクター)化するのが良い。
自分自身が背中を見せて、周りに影響を与えるリーダーのような存在。だから、ファンが集まり、スポンサーが集まる。

企業としてプラットフォームを目指すことと、個人としてキャラクター化を目指すことが正しいような整理である。

つまり、ピカチュウ化を目指すということである。

生きる。つまりそれは、アートである。

人生とは、企画である。

たつを